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1:千利休の話
「千家系譜」「千利休由緒書」によると、利休の祖父は、田中千阿弥(せんなみ)とされており、足利義政(8代)の同朋衆として仕えていた人物であるとされています。 同朋衆とは、早い話が将軍のお側にて雑務をこなす僧の格好をした者の事であり、この職にある者はその名に阿弥が付けられていました。(相阿弥などが有名)

その千阿弥が、戦国時代の幕を開ける応仁の乱の政変に巻き込まれ、難を逃れて、京都から堺の町へ移り、そこへ住むに至ったのです。 ところで、この千阿弥、記録では同じ名の者が三人存在しており、三人とも茶の湯を嗜んだということですが、いずれも詳しい生没年はわからず、どの人物が利休の祖父かはわからないとも言われています。

さて、その長男である田中与兵衛(よひょうえ)は、堺の今市で魚屋を営み、一代で財を築き、堺の納屋衆にまでなりました。 この時、与兵衛は千阿弥の千の字をとり千氏とも称したと言います。これが「千」の姓の由来といわれています。

千利休は与兵衛の長男として生まれました。幼名を田中与四郎と言い、大永二年(1522)に生まれ、天正十九年(1591)に没しています。利休は16歳の頃には既にひとかどの茶人として堺の町では知られていたらしいことが、当時の古文書に散見できます。

その与四郎が17歳の時に入門したのが、北向道陳(きたむきどうちん)とされています。当時、道陳が住んでいた家が、北側を向いていたから北向という呼び名があったそうです。道陳は、(当時の書院台子の茶の第一人者相阿弥から茶を学んだ)空海という隠者から、その茶のわざを伝授された人物です。

与四郎はここで書院台子の茶を学び、その後に道陳に紹介されて、武野紹鴎(注:本来は鴎の古い字。JIS規格にない)に弟子入りし、草庵の茶を学びました。 紹鴎に入門したとき、与四郎は19歳。その年与兵衛が逝去。天文九年(1540)のことです。
紹鴎はかねてからの与四郎の力量や名声を認めていました。 たとえば、紹鴎の四畳半の茶室が出来上がった時、そのお披露目の茶席に誰が呼ばれるのか、我こそは、と堺の文化人が期待をしていましたが、よばれたのは与四郎たった一人であったという話も伝わっています。そこで与四郎は、数日の猶予を請い京都に走り、法衣を整え、急いで戻りその茶会に臨みました。これを見て、紹鴎は大いに満足したということです。 一説では、この時に大徳寺の笑嶺宗きん(これまたJIS規格にない漢字「訴」と似た字)和尚のもとで出家し「宗易」という名をもらったと言われてます。

その後、千宗易と改めた与四郎は、ますます茶の道に励むことになります。
時は戦国時代であり、宗易雌伏の時代でありました。 その時代、堺の町は納屋衆とよばれる豪商によって自治されていました。しかし織田信長が現れるに及んで、堺の町も抵抗むなしく信長の支配下におかれるようになりました。
その時代の宗易の「茶人」「数寄者」としての名声も大いに高く、宗易は信長の茶頭として召し出されることになりました。宗易50歳の頃です。(茶頭とは、簡単に言えば茶道についての相談役・指南役です) それから約十年後、本能寺の変が起こり、信長は無念の横死を遂げます。天正十年(1582)のこと。

その後、羽柴秀吉が天下を取り、豊臣姓となることは既知の通りですが、宗易も又、秀吉の茶頭となりその地位を固めていくのでありました。
ついに天正十三年、秀吉は関白に任ぜられたお礼にと、禁中(天皇のお住まい)にて正親町天皇の為に茶会を催す事になり、宗易がその後見を命じらます。しかし如何に秀吉の茶頭とは言え、公的な地位のある出自でもない、ただの町人あがりである宗易が禁中に入ることは許されないことでした。
その為に「利休居士」という居士号を天皇より勅賜され、禁中にはいることを許されたのであります。ただし、勅賜とは言え、実際に選んだのは大徳寺の古溪宗陳和尚とされています(その他にも説あり)。
その出自もまた諸説あり、「名利共に休す」から来ているという説と、「老古錐」(古ぼけた錐)を意味するところの「鋭利休歇」(えいりきゅうけつ)から来ているという説が有力です。
どちらが正しいというのは私にはわかりませんが、私は「老古錐」という言葉が好きです。 最初は鋭い切れ味を持つ錐も、年を経るとともに少しずつその先に丸みを帯びていく、利(切れ味)が休す(落ち着いてくる)、いかにも侘びの趣が感じられるからです。

さて、この後、利休は秀吉から家康に「天下の名人」と紹介されるなど、名実共に天下一の茶人となっていきます。

しかし、天正十九年(1591)、利休は秀吉の怒りにふれ、突然、堺へ蟄居を命ぜられてしまいます。 その後、茶友たちから秀吉に詫びを入れるよう再三の助言もあったようですが、利休はこれを行わず、ついに同年二月二十八日、京都へ呼び戻された利休は秀吉より切腹を命じられ、その最期を遂げたのであります。

この原因は諸説ありますが、第一に大徳寺山門である金毛閣の階上に勝手に利休像を設置したことによる不敬罪、第二に茶器の売買に関して私腹を肥やしたこと、などが定説となっています。 しかしこれらは当時の反利休派(石田三成や淀君など)による讒言がおおもとの原因となっている節も見受けられます。
ではなぜ、利休はそこで、えん罪である事を訴え、真相を主張しなかったのでしょうか。なぜ秀吉の切腹の命に素直に従ったのでしょうか。 天下一の茶人としての意地だったのでしょうか。そこは大いなる謎であります。

ところで、問題の利休像が安置された金毛閣は、現在、施錠されており、その階上には立ち入ることはできませんが、特別の許しを頂き二回ほど登る機会がありました。
薄暗い伽藍の中、利休像と一緒に寄進された十六羅漢を正面にして、その左(西)側に厨子があり、そこに利休像が安置されております。 利休切腹の原因になったオリジナルの利休像は切腹の際に同時に磔にされており、しばらくは代わりの像もありませんでしたが、現在は明治二十年に伊木三猿斎の未亡人より寄進された利休像が安置されています。(これも、実に奇遇な話が伴っているのですが、別の機会に譲ることにします)

利休が没してから、すでに四百年以上の時が過ぎてはいますが、利休切腹の原因ともなった金毛閣の楼上に佇むと、そこはかとなく往時の名残を感じることができ、不思議ななんとも言えない時を過ごす事ができます。
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