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5:大徳寺の話
さて、タイトルどおりに真面目に書こうとすると、かなり膨大な量になりるのは目に見えています。 とは言え浅学な私としては、いかほどの知識も持ち合わせておりませんので、タイトル負けしそうですが、とりあえず、思いつくままに(と言うか、知っていることだけ)書いてみます。

まず、位置するところは、現在の京都市内の北西部、紫野という地名の所にあります。 開山は正和四年(1315)、開祖は大燈国師宗峰妙超とされております。 山号を龍宝山と号し、宗派は禅宗の一つ臨済宗です。 宗峰はこの頃には花園天皇に禅を進講していたと言いますから、大徳寺は開山の時からすでにかなりの格式があったと見られています。

建武元年(1334)に大徳寺は南禅寺と共に五山の上に列せられます。

この五山について若干の説明を致しますと、当時の臨済宗は新進気鋭の宗派でありました。 この宗派を日本へ持ってきたのは栄西という僧ですが、彼は、茶の実も持ち帰り、日本に茶を広めた人物でもあります。 当時、臨済宗官寺の制度(言うなれば公的機関としての寺)と言うものがあり、中国をまねて五山(五ヵ寺)の制定が行われました。

これは鎌倉と京都においてそれぞれ制定されましたが、京都五山は一位から順に、天龍寺・相国寺(しょうこくじ)・建仁寺・東福寺・万寿寺の五つです。 その上位に南禅寺が五山の上として位置づけられていました。 そこへ大徳寺も加えられたのです。
この五山の次に来るのが十刹といわれるものです。 大徳寺は長い歴史の間に五山の上から十刹へ格下げされたりしたこともあるようです。

しかし、民衆のための臨済禅を目指した大徳寺は、最終的にはこの五山に列せられることを辞退し、野に下って一介の禅寺となる道を選びました。

時が流れるに従い、五山はその寺格におぼれて、次第に凋落していくことになるのですが、大徳寺や妙心寺という野に下った臨済の寺は、逆に民衆の支持を受け、そしてまた大名や小名の帰依を受けて大いに発展することになるのです。

さて、話を元に戻します。 応仁元年(1467)応仁の乱がおこり、大徳寺も戦災により焼失・荒廃してしまいます。 その後、文明五年(1473)、一休宗純(大徳寺47世)に大徳寺復興の勅命が下ります。 そしてついに文明十一年に復興が完了するのですが、巷間で人気のあった一休和尚がその復興の担当者であったことも、復興資金を集める大いなる求心力になっていたに違いないと考えます。

茶の湯と大徳寺がなぜにここまで深い関係になったのでしょうか。 もともと茶を飲む風習は中国から入ってきましたが、これは禅宗の修業の一つとして入ってきた、というのが一つ考えられます。 ただしこれだけでは、まだ大徳寺自体と茶の湯とは結びつきません。

詳しく関係書を繙いてみると、大永六年(1526)古嶽宗亘(こがくそうこう・大徳寺76世))が堺に、大徳寺の流れを汲む南宗庵を開いたことにはじまると言われています。 当時、大徳寺には、一休の流れを汲む真珠派、陽峯宗韶(ようほうそうじょう・大徳寺70世)の竜泉派、実傳宗眞(じつでんそうしん・大徳寺56世)から二派に分かれた南派(東溪宗牧・とうけいそうぼく・大徳寺72世)と、そして北派(古嶽)の四つの流れに分かれていました。 南宗庵とは、その中の北派の僧が大徳寺を務めた後の隠居寺としての存在でありました。 その後、その南宗庵は、大林宗套(だいりんそうとう・大徳寺90世)の代に三好長慶の寄進を受けて南宗寺として拡充されました。

そこで堺の茶人達はきそってこの寺の門を叩き参禅し、茶禅一味の世界を求めたと言います。 それはさながら、堺の茶の湯の総本山的(あるいはサロン的)様相を呈していたと思われます。 ここで、茶の湯と大徳寺とのつながりが生まれました。
また、織田信長が堺を手中に収めようとしたとき、堺の納屋衆は三好氏と手を組みこれを阻止しようとしました。 結局それは失敗に終わりますが、利休はそのつながりを大事にし、三好長慶の息子義継が大徳寺に長慶の菩提寺として建立した聚光院を自分の一族の菩提寺にしています。
戦国の世も収まり、京都にも平穏の時代が訪れると、茶の流れも次第に京に集まるようになり、それに従い、大徳寺がさながら茶の湯の総本山と化していったのです。

さて、大徳寺の金毛閣は利休の寄進によって建てられました。 そしてその階上に利休の像を勝手に安置したことが秀吉の不興をかい、その不敬を問われ、切腹に至る原因になりました。 利休が切腹し、その生首とともにその問題の木像も一条戻橋磔にされたといいます。

現在も金毛閣には利休像がありますが、これは明治二十年に新たに寄進されたものです。 その経緯を簡単に紹介します。

裏千家今日庵には利休像を祀る御祖堂と言うものがあります。 ここに祀られている像は、もともと、裏千家四世仙叟宗室が仏師に彫らせて堂に祀ったものといわれています。 これが天明八年(1788)の大火で千家が焼失したとき、木造だけは堂の前の池に沈め難を逃れたのだそうです。 その後、十一世玄々斎宗室が、又再び難が訪れるかもしれない、ということで、像の首だけ写しを作らせました。

慶応二年、この玄々斎を備前岡山池田藩家老伊木三猿斎(玄々斎門下)という人物が訪ねた時のことです。 この三猿斎は茶道に執心で岡山でも利休を祀りたいと考えていました。そこで三猿斎は木像をどの様に作ったらよいか迷っているという話を玄々斎にしました。 すると玄々斎は、「以前に作っておいた首の部分があるからこれでお作りなさい」と保管しておいた首像を譲ったのだそうです。
そこで三猿斎は大いに喜び、像を完成し岡山に堂を作って祀ったことは言うまでもありません。 その後、三猿斎が亡くなったとき、その遺言には、像は大徳寺に寄進して永年に亘って祀ってもらうように言い残してありました。これを受けて、三猿斎の奥さんが明治二十年に大徳寺に寄進したものが現在に至っているのだそうです。

大徳寺には数多くの塔頭がありますが、その話は別の機会に譲ることにします。

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