茶の湯閑話


8:お茶のはじまりの話

 あなたは、お茶の歴史をご存じですか? 

お茶は日本固有の飲み物のような気がしますが、意外にも日本のお茶の飲用の歴史はそれほど古くありません。
日本にお茶がどうやって入ってきたのか?このことについて少し触れてみたいと思います。

 茶は中国南部雲南省が原産地とされているツバキ科の植物です。いつの頃から飲用(あるいは食用)されていたのかは定かではないのですが、かなり古くから用いられてきたことはいろいろな文献や資料から推測できます。

 実は茶は中国より全世界へと広がっていった飲み物(嗜好品)なのです。 その証拠に、茶葉をお湯に浸して、その浸出液を飲むという飲用法がほとんど同じです。 そしてもっと驚くことに、「茶」と言う言葉もまた、世界中ほとんど同じなのです。
それは二系統に分けられます。 CHAというグループと、TEAのグループです。これは茶をカントン方言ではCH’Aといい、アモイ方言でTAYと言ったからですが、これにより、世界中のお茶を現す言葉はこの二つのどちらかの系統に分類することができるのであります。
 たとえば、日本は勿論「CHA」ですが、ポルトガル語、ヒンズー語、ペルシャ語でもCHAです。 トルコはCHAY ロシアはCHAI。 一方TEAは英語、THEAは学名、THEEはオランダ語、THEはフランス語であり、イタリア、スペイン、ノルウェー、スェーデン、チェコなどはTEです。
これほどまでに万国共通の言葉は少ないと言えましょう。

 茶の古い記録で代表的なものは、唐の時代に陸羽が著した「茶経」でしょう。これが著された年代はハッキリとはしていませんが、だいたい8世紀後半と言われています。陸羽の茶の飲用法は今のように急須の中に茶葉を入れお湯を注いで浸しておく方法ではなく、煮出す(グツグツと煮る)方法をとっていたという記述が散見でき、そのレシピも詳しく記されています。

 一方、日本においては、その時代、遣唐使を送っていた時代です。(7世紀から8世紀にかけて) その為、当時の日本においては、唐の文化がすべての見本とされていた面が多分にありました。 その唐において喫茶の文化が大いに栄えていたとすれば、この時代に日本へも喫茶の風習がもたらされたと考えて間違いないと思います。(ただし、九州地方の限られた地域にはそれ以前にも入っていた可能性もある)

 しかし、唐においては広く流布していた喫茶の風習も、日本ではその時代の最先端の文化として、僧侶などの知識人や貴族の間でのみ、その風習が広がっていったようです。それは当初、薬用として用いられ、茶を飲むことは薬を飲むこととして捉えられていました。(一般の人が盛んに茶を飲み出すのはずっと時代が下って江戸時代に入ってからなのです)
飲み方も、茶葉を堅く固めて固形状にした団茶と呼ばれるものを使い、これを使う分だけ削って、それを煮出して飲んでいました。

 さて、歴史は流れ、遣唐使が廃止され、国風文化が台頭する時代になってくると、唐の文化である喫茶の風習も次第に廃れていきました。 日本において喫茶の歴史はここで一旦幕を閉じることになります。

そして再び喫茶が日本の文化の中に登場して来るのは、時を経て鎌倉時代の初期になりますが、その原動力となったのが、建仁寺開祖栄西禅師でした。

 中国との交流が途絶えて久しい時期、栄西は苦労して二度にわたり、宋に留学し禅宗を学んできました。 この時、栄西が茶の文化を再び日本へ紹介したのです。
九州に戻ってきた栄西は、まず福岡と佐賀の県境にあたる背振山にその種を蒔き、茶の栽培に成功します。 のちに京都でもその栽培に成功し、日本に再び茶の文化をもたらしたのです。 ただし当時は、宋での禅林での作法に習い、禅寺での修行の一つとしての喫茶が主でした。 またその飲み方は団茶を煮出すのではなく、茶葉を石臼で細かく挽いた粉、つまり抹茶でした。

 ある時、源実朝が二日酔いに苦しんでいるときに、栄西が茶を献じその苦しみを解いたところ、将軍が大いに満足したために、栄西はかねてより用意していた本を将軍に差し出ました。これが有名な「喫茶養生記」です。

その後、喫茶(抹茶)の風習は貴族や武家の間に急速に広がり、書院の茶が興ってきます。 そしてその対極に珠光、紹鴎、利休と続く侘び茶がの大きなうねりが興っててくるのです。(利休については1:利休の話を参照のこと)

   市井でも辻々で有料で一杯の茶を人々に共する職業も出てきて、一般の人の間にも少しづつ喫茶の風習が広がっていきます。 勿論、飲み方は、まだ抹茶でした。

 さて、これで喫茶の風習はどっしりと日本の文化に根を下ろしたことになりますが、その後のお茶について簡単に触れてみます。
 実は煎茶と言うものはまだ出てきていないのです。

ここまで飲まれていた抹茶は、皆さんよく存知の通り、展茶(てんちゃ)を石臼でひいたものです。 緑茶はお茶の木の新芽をつみ取り、それを蒸して揉みながら乾燥させて作り上げます。 この新芽を摘み取る数週間前から、お茶の木の上にヨシズなどで覆いをして直射日光を遮った環境で芽を出した茶葉で作り上げたお茶が玉露というものです。 この玉露は蒸してから、揉まれて乾燥するため形状が針状になります。 これを揉まずに、単に粉砕乾燥して、葉脈や茎を取り除いたのが、展茶と呼ばれる抹茶の原料です。(一見すると、青海苔のようです) これを石臼でひいて仕上げると抹茶になるわけです

反対に覆いをしないで、そのまま日光を浴びた環境の茶葉をつみ取って作ったのが煎茶です。
煎茶の飲み方は、江戸時代の初期、隠元が大陸よりもたらしました。 隠元は宇治に黄檗山万福寺を開山した僧であり、煎茶の方式というのを定めた人です。
その後、抹茶の流儀にある家元制度による格式化された茶を嫌い、もっと自由な茶を求めた文人や僧達が煎茶での点前作法をつくりあげていきます。

その後、1738年永谷宗円が蒸し製煎茶を考案、1835年山本嘉兵衛が玉露の製法を考案するに至り、以後ようやく、一般庶民にもひろく喫茶の風習が広がり、現在に至っているのです。


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