ボクはなぜテンカラをやっているのだろう。

せせらぎに立ち、緑に包まれ、鳥の声を背に受けて、毛鉤を振りながら、ふとそんなことを考えることがあります。

まず「テンカラ」という言葉をご存じのない方のために少し説明しましょう。テンカラとは、渓流における和式の毛鉤釣りです。当世流行りのフライフィッシングとは少々趣を異にしています。もともとはイワナやヤマメやアマゴといった渓流魚を獲ることを生業にしている「職漁師」という人達の間で伝承されてきた、大胆でありながらも繊細でデリケートな釣法です。ただ、その技を継ぐものも少なく、一時期、その伝統は消え去る運命にありました。

しかし近年、渓流釣り師の間で少しずつテンカラを楽しむ釣り人が増えてきており、徐々に復活してきています。 とはいえまだまだテンカラ人口は少ないのが現状です。ただでさえマイナーな釣り方であるのに加え、職漁師というプロの釣り=(イコール)難しい釣り、という意識も少なからず原因になっているのかも知れません。

「釣りにはいろんな種類があるのに、何故、僕はこのテンカラを選んだのか」
たしかに渓流での釣りは、一つの渓を独り占めにして、自然と一体感を満喫できるという至上の悦びはあるけれど、それだけが理由だろうか。

そう考えたとき、ふっと私の胸にひとつの言葉が浮かびました。
それは「侘び」(わび)という言葉です。 テンカラには侘びの心に通じるなにかがあるのかも知れない。 私はそんな気がしたのでした。

皆さんが、「侘び」(わび)とか「寂び」(さび)という言葉で真っ先に思い浮かぶのは、やはり茶道でしょうか。
今、私は「テンカラには侘びの心があるかも…」と、いとも簡単に書いてしまいましたが、よく考えてみると、この「侘び・寂び」という言葉は非常に難解な言葉であり、少々大上段に振りかぶりすぎたかもしれません。

私も少しは茶の湯を囓ってはおりますが、茶の道に入ってまだ20数年程度です。20年というのは茶の道ではまだまだ駆け出しの部類としていまだに修業の身であり、まして、「侘び寂びの具体的な説明を」と言われても、恥ずかしいことに確たる返答もできない不勉強者です。
とは言え、書いてしまった以上は乗りかかった船ですので、愚見を交えながら、すこしばかりそのことについて考えてみたいと思います。

侘びと寂び、この言葉の解釈を考えたとき、どういう違いがあるのか非常に難しい問題ですが、実は、「侘び」と「寂び」はその意味するところはほとんど同じだと師匠から教えていただきました。 「寂び」は「錆び」と同じ意味合いがあり、もの(物質的なもの)が時の流れの中ですこしづつ古びていく状態を指しています。 そして侘びとは精神的な「寂び」を表すのだそうです。

室町時代から利休の生きた安土・桃山の時代の美意識は、豪華で耽美的なものでありました。しかし、その対極には、単純美を否定し、時を経て傷んだわびしい状態の美を肯定する精神的な美意識もあったのです。いわゆる、滅びの美学とでもいいましょうか。「もののあはれ」などもそれに類するものでしょう。

茶の世界でも、中国から渡ってきた道具(唐渡りなどと言います。今で言う舶来物です)や台子(だいす)などをかざった書院台子の茶と言われる、格式ある重々しい茶の作法や、バサラと言われる、華美な装飾や山海の珍味を集めた酒池肉林の賭事(茶の産地を当てる)のような茶の楽しみ方が主流でした。
しかし実はその時代のその対極に、村田珠光の「草庵の茶」という新しい試みもあったのです。 草庵の茶とは、書院の広間を使わず、四畳半という狭い空間で、かざり付けも質素にして侘びた道具を使う茶でした。しかしながら、その時代、珠光のこの侘びの茶は世の中からまったく見向きもされませんでした。

その後、下克上の時代、利休の師匠である紹鴎(←正字は鴎の古い字)がその草庵の茶を踏襲し広く普及につとめ、ついに利休が侘び茶と言うものを大成したわけであります。(この辺の経緯は別の機会に触れます)

あるとき利休は自分の息子道庵に、お客様が来るので庭を掃除するように命じました。道庵は言われた通り綺麗に掃き清めました。すると、利休はその庭の木を揺すってきれいになった庭に改めて葉を散らしたと言う逸話があります。 まさにこれが「侘び」なのです。 (難しいですね)

完全に清められているものが、いちばん綺麗で最高なのは当たり前なのですが、それでは完全すぎるのです。そこへ葉を「散らす」という余裕こそが侘びなのですね。 だったら最初から掃除なんかしなくても良いじゃないか、と言うことになるのですが、それではまだまだ不完全なのです。 完全(に綺麗になったという状態)を経た上での余裕(侘び)でなければならないわけです。
(とはいえ、今の世のようなバブルの頂点を極めた後の右肩下がりの状態を言うわけではありませんから、誤解のないように。)

贅沢や華美を避け、物質的享楽を許さず、ひたすらに持たざる貧しさや慎ましさにこそ精神の清純さを求めるのが侘びなのです。簡単に申し上げれば、出しゃばらず、おごらず、静かに質素に、時の流れに身を委ね、心の余裕を楽しむ、それが侘びでありましょうか。

難しいですね、書いていて自分でもだんだん訳が分からなくなってきそうです。 では、これがどうテンカラと結びつくのでしょう。

たとえば、テンカラの道具の質素さ、これは間違いなく寂びの世界です。 使う毛鉤は一年を通して一種類、多くても2〜3種類を使うだけです。 また、テンカラのもつ雰囲気は、日本人である我々の感性にとてもしっくりとした優しさを与えてくれます。
テンカラには、日本の山間地の職漁師の釣りとしての「生活感」や「野太さ」、加えてその蔭には、生活に必要な分以上は要らないという「慎ましさ」があります。 更に、職漁師の技として完成されてきたにもかかわらず、その跡を継ぐ人も少なく、滅び行く運命にあった、という時代背景はまさに「侘び」そのものですね。

こんな想いが、私がテンカラに惹かれていった原点かもしれません。

もちろん、世の中の様々な「もの」に対する思いとは、人々それぞれですから、私の考えが即、皆さんに受け入れらるとは思いませんが、こんな奴もいるんだな、という位に聞き流していただければ幸いです。

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池田郁楓

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