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間もなく3月を迎えようとする時期、渓流釣り師たちの血が騒ぎ出す。日本のいたるところで、渓流魚の解禁になるからだ。そして今年もその時期を迎えようとしていた。 ********************************* 「今年の山は、雪解けは少し遅いようだな 」 2月とはいえ暖かな日差しの差す昼下がり、新聞を見ながら居間で親父が呟いた。そして新聞をたたみ、ゆっくりと窓の外を眺めてから、親父は午後の仕事にとりかかるために居間を出ていった。 あれは昨年の2月末、普段通りに午前中の仕事をこなし、昼食後の一服をしていた時の風景。これが僕が元気な親父を見た最後だった....。 僕はその午後から夜一杯まで得意先回りがあって、家に戻ったときには親父もお袋ももう寝ていた。 翌朝、お袋が僕を呼ぶ声で目がさめた。部屋に駆けつけると、親父はまだ布団の中にいた。 様子が変だという。 親父の体をゆすると、胸にのっていた手がだらりとおちた。 呼吸をしていない。 咄嗟に瞼をあける。瞳孔が開き、もはや絶望であることはわかった。 が....「救急車!」と叫ぶ間もなく、心臓マッサージを施す。体はまだ暖かい。口から息を吹き込む。心臓を押すたびに鼻から泡が出る ... 何故か不思議にそれだけが目に焼き付いていた。 遠くに救急車のサイレンが聞こえ、まもなく親父は病院へ運ばれた。が、やはり手遅れだった。親父は逝った。63歳。 医者は急性心不全だといった。寝ている間に発作が起きそのままだったらしい。 死因がどうあれ、親父の突然の死に、家族中が動転した。 前日まで普段通りの生活をして、なんの変わりもなく床についたのに、お袋さえも気づかないうちに、穏やかに、そして突然に親父は逝ってしまった。 何がどうなったのかさえわからぬうちに葬式が終わり、瞬く間に49日も過ぎた。骨を墓へ納めるとき、僕は一握りの遺骨を持ち帰った。 親父は、山が好きで、山菜採りも好きだった。山菜の出るポイントはいたるところ知っていて、季節になるといつも出かけていた。僕が子供の頃、親父は、早朝や休みの日にはきまって僕を山菜取りに連れ出したのだけれど、はっきり言って僕はそれが好きではなかった。子供にとっては山菜取りはつまらない時間でしかなかった。 しかし血は争えない。年を経るにしたがって次第に僕も山へ惹かれていった。そんな僕に、親父は色々な場所を教えてくれた。それはほんとに、ほんとに、楽しそうに教えてくれた。 なのにその全部を教えないうちに親父は逝ってしまったのだ..... 親父の言った通り、その年の月山の雪解けは少し遅かった。 亡くなって4ヶ月後、満を持して僕は親父とよく行った月山の笹薮の中へ入った。 新緑のこの時季、月山の笹薮にはネマガリダケというみずみずしいタケノコがはえるのだ。 背負子の中には、あの親父の遺骨のかけらが入っている。 この時期、山の中は1週間で様子が変わる。向こうまで見通せた森が、5日もすると下草がはえ、木々の新芽が延び一間先も見通せなくなる。 こんな時、親父は音で道をたどる事を教えてくれた。山中の道無き道を越え、今から行こうとする笹薮へたどり着くには、沢の音を頼りに進むのだ。沢の音に向かって進み、しばらくして右に折れ、沢の音を左に聞きながら斜面を降りる。 ようやく、沢沿いに広がる目的の笹薮にたどり着いた。ほとんど誰も知らない、秘密の場所。さわさわと風が笹を揺らし、額の汗を心地よく冷やしてくれる。 一息入れていると、「よう、今年も来たな」・・・・・・・薮の中にそびえる、ひときわ大きなブナの木が枝葉を揺すりながら語りかけてきた。僕は「やぁ」と軽く手を上げ、ブナの木に近づいて行った。 ブナの木は続けた・・・・・・・「親父さんは?」 僕はそれに答えず、無言でブナの木の根元にちいさな穴を掘り、親父の遺骨をそこへ埋めた。・・・・・・それでブナの木は全てを察してくれた。 「親父よ、さ、好きなだけタケノコ採りをしていいよ。」 6月の暖かい日差しの中、薮を渡る風の音と、時折聞こえる鴬の声だけがあたりを包んでいた。そして僕は風に抱かれ、いつまでも、ブナの木の根元に座っていた。 親父の死からちょうど1年、1周忌の法要も終えた今日、親父が最後に眺めていたあの窓を開け、僕は昨年の6月のあの一日の事を思い出していた。あの柔らかい日差し、風、鳥の声..... そのとき僕は気づいた、あそこにはブナの声と風の音と鴬の歌の他に もう一つ音があったと......。 僕はあの時、まだ、釣りには全然興味がなかった。だからだったのかも知れない、聞きのがしていたんだ、あの音を....。 そう、幅一間にも満たない、地図にさえ載っていない沢の瀬音。 僕を笹薮へ導いてくれる沢、魚がいるかどうかさえもわからない、恐らく誰も竿を出した事もないあの薮沢.....。 その毎年変わることなく流れゆく、瀬の音。 笹藪のすぐ側を流れていたのに、その存在を僕はまるっきり忘れていた。 「よし!」 僕は決めた。今年の、いや僕の釣りのスタートはあの沢にしよう! あそこへ行けば親父と過ごせるんだ。 沢を渡る風、笹の葉音、萌えたつ緑、流れる雲、瀬音に包まれ親父と過ごす一日、 何に不足があるものか....、これが....僕だけの解禁日だ。 「親父、待っててくれ。雪が解けたら、必ず行くよ。」 ********************************* その時、僅かに春の匂いを含んだ風が頬をなでていった。 僕は静かに窓を閉める。
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